2024年12月14日土曜日

12月14日土曜日/鰻重を食べる

◇ 西小山・武蔵小山・綱島

 早朝、ゴミを出しにいくと、まだ真っ暗だが、こんな時間にゴミを出すひとはほかにもいるもので、どこかのおじさんに出くわした。すぐに戻ってきて、ラジオをつける。「木梨の会」を聴きながら眠り、「ナイツのちゃきちゃき大放送」で目が覚めた。「常連さん」はえのきどいちろう。録画していたテレビ番組をいくつか。楽天マガジンで雑誌のチェックをすると、「週刊現代」が昨日配信されていたのを見落としていた。山田五郎の連載対談には泉麻人が登場。「あの日のごちそうさま」の欄には桂雀々が登場していた。亡くなる前、10月に取材を受けていたのだ。

 髪を切ったら、ずいぶん急に老けた感じがする。ようやく年相応の顔になってきたのか。今日は午前中に出発して、西小山まで。不動産屋に叔父たちと集まる約束になっていた。用件が済んだあとは、ふたりの叔父と武蔵小山まで歩き、浜田屋という鰻屋に入り、五千円もする鰻重を食べさせてもらった。そのあとは高級ドトールに入り、500円もするコーヒーを飲んだ。

 叔父たちと別れたあとは、ひとり綱島に寄っていく。ブックオフにて、110円の文庫本を1冊、220円の文庫本を1冊買う。東横線で眠り、帰宅前には星川に下車、マクドナルドに入り、読書していく。ホットコーヒーとアップルパイを食べ、たった260円。

◇ 読書

 マクドナルドで、太田光「芸人人語」の2巻を読み終えた。2022年刊、朝日新聞出版。初出は「一冊の本」の連載コラム、2020年12月号から2022年8月号に書かれたもので、「コロナ禍・ウクライナ・選挙特番大ひんしゅく編」という副題がついている。オリンピックの時期がまるまる含まれるのだが、小山田圭吾についてもしつこく書かれていて、その時期、テレビやラジオでも語られていたが、このあたりはとても興味深く読んだ。問題になった「ロッキング・オン・ジャパン」のインタビューを引用しつつ、P152-153「その頃私はこの手のカルチャー誌のような気取った雑誌が嫌いで、「スカしやがって」と思っていた。私もこの頃「テレビブロス」という媒体に連載していて、今もそれは続いているが、ブロスは「サブカル系」とされ、コラムが多く、他のテレビ誌と違いテレビを斜めから見るような態度が嫌で、当時の担当編集者に他の連載の文句を言ってたのを覚えている。そういえば、小山田氏も同じブロスで当時連載を持っていた。あまり興味がなくて読んではいなかったが、タイトルだけは引っかかったのでよく覚えてる。「猿は猿を殺さない」「コーネリアス」というのは、映画「猿の惑星」に出てくる猿で、確かタイトルになっているのは、映画の中の彼の台詞だったと思う。つまり同種間で殺し合いをするのは愚かな人間だけだ。という意味だったと思うが、私は「本当かよ?」と思っていた。(略)当時はこういうことを知ったように語るのが流行りだった。ネットの時代のこの手の「気取り」は当たり前すぎて、違和感を感じないが、思えばこの辺の雰囲気が今のネット上の雰囲気の始まりだった気がする。素人が何でも上から知ったようなことを言う。ブロスではないが、「消しゴム版画家」と名乗るナンシー関という人物がいて、笑いのこともテレビの現場のことも何も解りもしないくせに、ただテレビ番組を評論するようなことをやっていて、大嫌いだった。こんなことが仕事になるのか?と驚きだった。「私、人と違って見方のセンス良いでしょ? 目の付け所が違うでしょ?」という態度が嫌だった。しかも言ってることのほとんどが的外れだった。今はネット上にそんな人間が溢れている。」 P157-158「「当時のサブカルチャーの一部にあの発言を許容する価値観があったのではないか。その時代の価値観を今の時代の価値観で裁くのは違う」と私は「サンデー・ジャポン」で発言し、大バッシングを受けた。事務所にもたくさんのクレームの手紙が来た。「あんなヒドいことをした人物を擁護するのか?」と。私の発言も含め小山田氏の記事そのものに対しても多くの評論家や文化人、タレントがコメントした。その多くが、件の「ロッキング・オン・ジャパン」の記事を許容する価値観など当時から存在しなかった、というものだった。(略)印象的だったのは、「あの記事を当時から知っていた」というサブカルチャーに近い人々の意見だ。彼らは「当時から『アレはない』と思っていた」「あの記事は発売当時、物議をかもした。当時から批判があった」「ネットで掘り起される度に自分は不快に感じていた」と言う人間が多いことだ。だから自分は許容したわけじゃない、と。本当かよ?と私は思う。じゃあなぜ雑誌は残り続けた? なぜ当時論争にならなかった? なぜ抗議運動が起きなかった? なぜ出版業界は放置し続けた? 音楽業界はなぜあの記事を拒絶しなかった? 黙ってたじゃないか。傍観してたんだろ?と。「時代の問題じゃない。当時も今も、小山田のいじめ自慢を受け入れた世界などどこにもなかった」 私はこのような言葉を聞く度に「嘘つけよ」と思う。この連載でも何度も書いているが、「我が校にいじめはありません」という教師や、「笑いといじめは違う」と言う芸人と同じ綺麗事に感じる。私が「小山田を責め、吊し上げ、この世界から退場するまで続けるのか?」と言った時、「あんなひどいことをした人物は許されるべきではない。断罪されて当然だ」「あの行為は時代性とは関係ない特別なもので、どの時代でも許されない」「いじめなんてものじゃない傷害事件だ。お前はその小山田を擁護するのか? だとすればお前も同罪だ」と言う人々に聞いてみたい。普段「いじめを傍観することもいじめに参加することと同じです」と言いながら、今でも続いているであろう小山田氏のSNSや事務所に大量に届く、「消えろ」などと書かれた手紙などに関してはなぜ文句も言わず放置し続けているのか?と。お前も傍観者じゃないか?と。私はこういう連中にインチキ臭さを感じる。」 あるいは、衆院選の開票特番の最中に起きた京王線の事件、ジョーカーの仮装(この日はハロウィンだった)をしていた犯人について、犯人は「ジョーカー」という映画を理解していないという意見が当時はあったが、それに対し、太田はつぎのように反論する。P201-202「この連載でもしつこいぐらいに書いている、「お笑いはいじめじゃない」「この学校にいじめはない」「私は人の失敗で笑ったことがない」というインチキ臭い考え方の先にある、あるいは元になる考え方だ。「作品に罪はない」。何度も言うが作品に罪はある、と私は考える。今までいろんな表現が私を「悪くした」実感があるからだ。悪くしたとは、一般的な倫理観と違う倫理観を持たせたということだ。」 また別の箇所では、太田はつぎのようにも語る。P51「あるいは自分も過去にはそんな考えがあったかもしれないが、今は「アップデート」してるので過去の自分は跡形もなく消えました、というような「令和の私です」といった顔をしてる男をっ見ても、「アップデート? お前はパソコンか」と言いたくなる。「簡単でいいな」と。」

 夜に帰宅し、録画していたテレビ番組をいくつか。今日の「NHKニュース7」と「勝手にテレ東批評」(ゲスト・野田クリスタル)を観て、「Nキャス」を追っかけ再生で少しだけ観た。23時からはラジオをつけ、「HONMOKU RED HOT STREET」をオンタイムで聴きながら眠る。

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