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2025年3月14日金曜日

3月14日金/「数学と人間」

◇ テレビ・雑誌

 朝、ブログの更新をひとつ。TVer から、テレビ番組をいくつか。昨夜の「アメトーーク!」は「女性役やってる芸人」。チュートリアル徳井、空気階段かたまり、ハナコ岡部、男性ブランコ平井、マンボウやしろ、レインボー池田、コットンきょん、かが屋のふたりというメンバー。MC側には森香澄、空気階段もぐら、男性ブランコ浦井が座る。

 昨夜の「私のバカせまい史」は、さらば森田がプレゼンター「人類最強のお笑いウェポン屁史」。古代ギリシャから屁の歴史をたどりつつ、中世ヨーロッパの放屁師や、おならの語源は室町時代の女房詞にあるとか、江戸時代の屁合戦絵巻などにも触れていく。志村けんは屁の音のレコード「ワンダープーランド」を使用していて、音響デザイナーの和田則彦が本物の屁を録音したものだが、そのレコードに収録されている「黄色いサクランボ」が流された。「ひょうきん族」ではたけしがアドリブでよく屁をこいていたこと、そして、浜田は屁ツッコミを編み出す。にぎりっぺは英語で「cupcake」というトリビアもあった。最後はスタッフや観覧客も含め、誰かが屁をするまで終われないという展開になった。そういえば、すっかり忘れていたことを思い出したが、ずいぶん昔にダウンタウンの番組で、屁の企画の観覧に行ったことがあった。「ごっつええ感じ」だったんだろうか、神保町の会場で、観覧客みんなにイモかなにかがふるまわれ、屁が出そうになった観覧客がステージにあがって、屁をしていたような気がする。なにを目標にしていた企画だったのかはぜんぜん覚えていない。検索してもわからない。

 昼はラジオ。「ビバリー昼ズ」から「中川家 ザ・ラジオショー」をつけっぱなしにしておく。ラジオを聴きながら部屋の掃除をする。奥の部屋の入り口を埋めつくしていたチラシの処分についに手をつけるが、ここは夏に使っていたコンパクトクーラーのために水びたしになり、今でも湿り気が残っていた。ずいぶんひどい状態にしたままで、何年も過ごしてきてしまったものだ。

 楽天マガジンのチェック。「婦人公論」には「名優たちの転機」という関容子による連載インタビューがあり、今号は石倉三郎がゲストだった。俳優になる経緯、転機となる仕事がたどられていく。橋爪功と共演した「ゴドーを待ちながら」について語られるなかで、お笑いをやっていた時代に「ゴドーを待ちながら」は星セントがやっていたのを何度か観ていたのだという。「セントがやったんだから俺だってできるだろ、ぐらいのことなんでね。それがまぁ、初めての「新劇」ですかね。」

 録画していたテレビ番組のなかから、観そびれていた番組をひとつ。2020年放送の「ザ・ノンフィクション」から「就職先はさる軍団」というドキュメンタリー。村崎太郎が代表を務めるモンキーエンタープライズの新入社員の就職説明会の場から始まる。おなじみの猿軍団であるかのようなナレーションが入るが、かつての日光猿軍団とは別モノという説明がない。もう5年前の放送になるが、村崎太郎のパワハラ気質がぷんぷんしている。新人の教育係はゆりありくのゆりあが担当していて、ゆりあが入ったときは一門に入門するというイメージだったのが、今の子たちは会社に入社するという意識になっているというのだが、実際、会社化しているのだし、冒頭のシーンを観ると完全に入社風景だ。

 NHKプラスから、今日の「ニュース7」を観ると、石破が一年生議員に商品券を贈っていたという問題を扱っている。スレッズにも書いてしまったが、左派は自民党を批判したい、自民党内右派は石破を降ろしたいだけで、これはぜんぜん国民のための動きではない。ヘタに石破を降ろし、やばいやつにしゃしゃり出てこられても困るのだ。野党の発言力が強い状態の石破政権というのは、今までの何十年からするとそうとうベターだろう。そのほか、立花孝志が襲われ負傷したという明るいニュースも。

 今夜放送される日本アカデミー賞授賞式を観る前に、TVer だけで配信されていたウェルカムレセプションの様子を観る。ナビゲーターは若林が今年も続投、パートナーは佐藤栞里になった。授賞式の司会は安藤サクラと羽鳥慎一。「キングダム」チームの大沢たかお、山﨑賢人、佐藤信介監督が登場したが、大沢たかおは若林が神泉のカフェでバイトしていたときの常連客だったそうだ。さらにもう1本。これも配信限定のレッドカーペットの様子を観る。俳優陣以外の裏方たちが歩く様子は放送にはぜんぜん出ないから、これは今までも観たことのないものだ。優秀主演女優賞では、ひとり遅れてなかなか出てこないと思ったら草笛光子だ。若い女優たちと一緒に、内野聖陽にエスコートされてレッドカーペットを歩く草笛光子がたまらなく素敵だった。

 そして、放送された日本アカデミー賞授賞式。まずはレッドカーペットのダイジェストを観ながら若林と佐藤栞里がしゃべる時間があり、すぐに最優秀助演男優賞の発表になった。内野聖陽、大沢たかお、岡田将生、佐藤二朗、山田孝之がノミネート。司会の安藤サクラと羽鳥慎一がインタビューし、最最優秀には大沢たかおが選ばれた。最優秀賞に選ばれると、若林と佐藤栞里のところにやってきて、ふたりにインタビューを受ける。最優秀助演女優賞には、芦田愛菜、清原果耶、土屋太鳳、山田杏奈、吉岡里帆がノミネート。吉岡里帆だけ、舞台出演のために会場にはこれず、事前に収録されたリモートインタビューの出演になった。最優秀賞には吉岡里帆が選ばれる。最優秀主演男優賞には、綾野剛、草彅剛、山口馬木也、山﨑賢人、横浜流星がノミネート。草彅剛がひとりだけ軽いトーンでいて、隣りに座るほぼ初対面だという綾野剛にマイクを向けたりする。最優秀賞には横浜流星が選ばれた。最優秀監督賞には、佐藤信介、塚原あゆ子、藤井道人、三宅唱、安田淳一がノミネート。最優秀賞は「正体」の藤井道人。最優秀主演女優賞には、石原さとみ、上白石萌音、河合優実、草笛光子、満島ひかりがノミネート。草笛光子だけ壇上に呼ばれないのかと思ったが、最後に壇上に呼ばれ、インタビューされた。最優秀賞には河合優実が選ばれたが、受賞作は「あんのこと」で、「ナミビアの砂漠」には触れられないのが不思議だ。若林と佐藤栞里のインタビューで気がついたが、そうか、来年は河合優実が司会になるわけか。ここで各部門の発表があったが、河合優実は「ルックバック」もあった。ミセスが受賞した主題歌賞というのは新たに新設された賞なのか。会長功労賞に選ばれた、木村大作、里見浩太朗のスピーチ。西田敏行には協会栄誉賞が贈られた。最後は最優秀作品賞、「キングダム」「侍タイムスリッパー」「正体」「夜明けのすべて」「ラストマイル」がノミネートされたが、どれも観てない作品ばかり。最優秀賞は「侍タイムスリッパー」に決まる。

 今夜の「A-Studio+」は吉岡里帆がゲスト。鶴瓶とはドラマで親子役を演じた。この放送時には能登の舞台に出ていることをこの番組で話していた。鶴瓶は、吉岡里帆と舞台で共演した渡辺えりに取材。藤ヶ谷太輔は仲のいい筧美和子とチャラン・ポ・ランタンももに取材していた。

◇ 読書

 深夜に読書。図書館で借りている、遠山啓「数学と人間」を読み終えた。2022年刊、中公文庫。なんとなく、数学に関する本を読んでみたいという気になり、遠山啓という著者のことは知らなかったが、なんか雰囲気のいい本だなと思って借りてみたらこれが大当たり。文章が平易なのもよく、随想感がある。巻末には大岡信による「弔詩」と、森毅による「異説遠山啓伝」が収録されている。ここに描かれている遠山啓という人物がまたとても面白く、読んでいて興奮させられたほどだ。以下、気になった箇所をたくさん引用する。

P16「二十世紀になってからの現代の数学というのは、ある意味で小学生の数学の考え方に非常に近づいているともいえる。だから最近は、現代の数学の考え方を小学校から教えようという動きが世界全体に出てきた。これは決して不可能なことではなくて、むしろ当然なことであります。つまり発展のいちばん先端のところがいちばんやさしいところと結びつく。こういうところがまた学問の発展の面白いところであります。数学者が長い間かかって考えたことが、いちばんむずかしいといわれているところが、小学生の考え方と似てきたというところもたいへん面白いことであります。」

P35「この『方法序説』というものの中に四つの研究の方法というものを挙げている。これはどういうことかというと、第一は、簡単にいうと「今までいろんな本が書かれ、偉い人といわれている人がいろんなことをいっているが、それは全部疑ってかかれ、それはウソかもしれん、まず第一に疑え」ということが書いてある。」

P56-57「このニュートンの法則があると、科学が今までの過去のことを説明するだけではなくて、未来も予言できるようになった。(略)だからニュートンの力学が出る前と後とでは科学そのものがたいへん変わってきた。」

P62「関数というコトバは日本では数学だけしか使わないことばですが、ヨーロッパでは function という日用語です。function を字引で引いてみますと、まっ先に「機能」という訳語がでてきます。これは日本では日用語です。」

P70「だから関数は大昔からそういう目で見れば幾らでもあったわけですけれども、そういう見方をするということが新しい。数学というのはそういう点では、いろいろな絵とか文学とそう変わらないものです。つまり新しい見方を教えてくれる。」

P74-75「和算、つまり日本の数学は江戸時代に急速に発展して、当時のヨーロッパにくらべても決して劣らないような数々の成果を生みだしました。しかし、そこでは関数の概念はついに生まれなかったといわれております。それは数学以外の物理学や天文学が発展していなかったために、そこから刺激を受けることができなかったためでしょう。その時代には数学だけが孤立しながら発展していたのです。そのために、自然、数学の内部だけに閉じてもらわざるを得なくなったのです。つまり数学は学問的自閉症にかかっていたわけです。そのことが関数の概念を生み出さなかった本当の原因であろうと思われます。」

P83-84「幾何学というのは、数学とわれわれの住んでいる世界、あるいは客観的世界とのつながりを問題にせざるをえない学問であります。(略)幾何学ほどそういう問題がはっきりでてくるものはない。そういう意味で、われわれの住んでいる世界、あるいは客観的な実在というものをどう見るかというようなところでいろいろな考え方がでてくる。それが幾何学はいちばんはっきりでてくる。これは私の考えですが、そういう意味で幾何学が歴史の区切りになっていると思います。」

P85-86「まず、ユークリッドのばあいには、幾何学の出発点となるところの点とか直線とか平面とかいうものが「何であるか」ということが決めてあります。(略)ところが、ヒルベルトにはそれがない。点、直線、平面の、いわゆる普通の意味の定義がないのです。こういうものをヒルベルトは「無定義語」という。点、直線、平面ということばは普通と同じように使っておりますが、それはその本を読んだときよっぽど気をつけなければならないけれども、ヒルベルトが頭の中に描いているのはそういうものではない。ただ慣習によってそういっているにすぎないということであります。こういう点が素人にはたいへんわかりにくい考えであります。何であるかをまず決めないで、議論を始めるのはおかしいではないか。そこのところがわかると現代の数学というのは半分ぐらいわかったといってもよい。そこのところがいちばんむずかしい。」

P87-88「だから点といっているのは定義しないというよりは、つまり実在とのかかわり合いを決めておかないほうが都合がいい。融通無碍にしておいたほうがいい、つまり無定義語にしておいたほうが都合がいいのです。」

P103-104「がんらい無限については古来から二つの対立する見方がありました。その一つは可能性の無限であり、それはアリストテレスによって代表されるものです。(略)この可能性の無限に対してカントルが対置したのは「実無限」といわれるもので、それは数えつくされた無限ともいうべきものです。」

P119-120「さっきいった数学という学問の特徴は、たとえば三すくみの例を三つあげましたが、石、紙、鋏はどういうものであるか、一つ一つのものの性質を研究するのは数学の任務ではなくて、もののほうは一応棚上げにして、相互関係のタイプに重点を置いて研究するのが数学だ。そういう意味で数学を「構造の科学」と想定することができる。いろいろな構造が数学という学問の中にストックされている。(略)数学は名前によりますと、数の学となっています。ところがそれはちょっと違うのです。数学というのは数の計算をやる計算術だというふうに誤解されやすいのですが、特に現代の数学は、数の研究もやりますけれども、それは一部分であって、むしろ構造の研究が主である。」

P123「そういった非常に広く解釈すると、人間の創造的活動は必ず何かの構造に関係がある。新しい構造をつくりだすのがある意味で創造力かもしれない。(略)ところが、あまり一般化してしまうと、何でもかんでも数学になってしまう、あまり広げてしまうと数学者は作曲もしなければならないし、絵もかかなければならないということになって、これはたいへん具合が悪い。そこで一応ふろしきを広げておいてから、今度はつぼめないといけない。数学という学問が研究する構造というものをある程度限定しようというのです。」

P136-137「数学というのは問題があって、きちんと計算して答えを出し、合えばマル、違えばバツをもらうものであった。計算して答えを出すのが数学という学問だった、というふうにお考えかもしれないけれども、実は、それも数学の一部分であるにはちがいないけれども、それよりもっと大事なものは、いわゆる構造を理解する、あるいはもっと広くいって、いろいろな物事を構造的にとらえるということが数学を勉強するいちばん大きな狙いだということになってくると、問題の答えを出すのを少しぐらい間違えたって、構造というものを正しくとらえることができれば零点にしなくてもいいのではないかと思う。そうなると見方がかなり変わってくる。」

P137-138「こういうことになってくると、今までの数学の四つの時代の特徴は、簡単なことばでいうと、古代は経験である。そして帰納的である。中世は演繹的である。しかしそれは動的でなくて静的である。近代は動的である。現代はいまいったように構成的である。また構造をつくり出す、こういうふうになってきているといってよろしい。」

P140-141「もう少し広いことばでいうと、近代までの数学は、芸術のことばを借りると自然主義、あるいは写実主義等にたいへん近い。ありのままのものを忠実に写しとる写真のようなものである。現代の数学は必ずしもそうではなくて、二十世紀になってでてきたアブストラクトの絵だとか、あるいはシュール・リアリズムのような傾向をかなり持っている。」

P147「西瓜を割ってみる方法を解剖法とかりにいうとすれば、叩いてみるのは打診法です。人間は打診によって、中をみないでもいろんなものの構造がよくわかる方法をいろんなところで知っているわけです。(略)解剖がやれないときは打診する。ちょうど群論は打診法に当たるわけです。ものをある操作でもって動かしてみる。その動き方でその構造を知る、こういうやり方がでてきた。」

P159「人間にとっても概念の世界は不連続であるが、感覚の世界は連続的であるといえるだろう。そこに恐らく人間の避けることのできない宿命のようなものがあるといえるかもしれない。」

P165「読んで字のごとく、微分は無限に細かく分けることであり、積分は一度細分したものをもう一度積み重ねてもとにもどすことである。数学の言葉でいうと、微分と積分は逆演算、すなわち逆の手続きである。たとえば「はいる」と「でる」、「売る」と「買う」、「昇る」と「降りる」のようなものである。そのことに初めて気づいたニュートンとライプニッツが微分・積分学をつくりだしたのである。」

P173「二十世紀の数学に新しい出発点を与えたのはゲオルク・カントルの集合論であった。集合論の特徴が本質的には何であるかについてはいろいろの異論があり得よう。数学に現われる無限の理論に確立する点に集合論の意義をみとめようとする人もあろう。しかし、私は当面の目標にふさわしいものとして、集合論のもう一つの特徴である分析的な手法をここでは強調してみたいのである。」

P176「しかしここで忘れてならないのは、原子にまで分解されるのは図形だけではない、ということである。図形に関するもろもろの法則そのものがまた分解の対象となるのである。」

P179「英国の数学者ハーディが「数学者は、画家や詩人と同じように、型作り人である」といったが、彼のいったように数学者は型をつくり、型をしらべるのである。」

P193「それまでの数学が研究の対象としたのは、数にせよ、文字にせよ、図形にせよ、おしなべてそれは「もの」の概念であった。それがどのように抽象的であるにしても、実態概念であることに変わりはなかった。しかしガロアが問題にしたのは「はたらき」、操作であり、機能概念であった。もちろんそれまででも操作そのものは数学のなかにしばしば現われてきたが、それはあくまでも実体につきまとう付随的なものとしてであった。しかしガロアは操作そのものを数学の中心課題としたのである。」

P212-213「教育学の人に言わせると、数学は人間形成と関係がない、数学は用具学科だという。何か大きな目的に対する手段として利用する学科だというのである。この考えは古くからいわれているらしいが、戦後では社会科が重要視されているのと関係があると思われる。(略)しかし、私はそうは考えない。数学をやることによっても人間はできる、望ましい人間形成ができると思う。数学者および数学教育者も人間形成を考えていいと思う。数学だけではなく、すべての学科が人間を作ることをめざすべきで、たんなる用具学科は教育の中にないほうがよいと思う。」

P214-215「今まで昔からあった数学軽視の傾向について述べたが、もう一つ、戦後に起きた生活単元学習的な考えが数学軽視の傾向を助長したと思う。生活単元学習と、その背後にあるプラグマティズムは数学と相いれないものを持っている。その人たちの考えによれば、数学はたいして必要のないものとして軽視されるのである。数学では小学校一年からすでに自然数がはいってくる。これはわれわれから見れば何でもないことであるが、一面から見ると、この中にはすでに高度の抽象がある。一匹、一羽、一個は存在しても、〝1〟そのものはそれらの抽象である。未開人種の中には、この抽象がまだできていないものもあるとい。数学はこのように最初の出発から高次の抽象によってはじまっている。これはプラグマティズムでいう生の経験を主とする考えとは相いれないものである。だから、生活単元学習では必要以上に数学を低く見てしまっている。」

P217「漱石の『坊っちゃん』では、主人公の〝坊っちゃん〟と〝山あらし〟はふたりとも数学の先生である。その筋を追ってみても、ふたりが数学の教師である必要はまったくないのである。それにもかかわらず、漱石がなぜふたりを数学の先生にしたかというと、彼は数学者かたぎというものがあり、数学が、やはり、何か人間形成に影響があり、人間の性格のある望ましい面を作ると認めたからであろう。一口にいえば、坊っちゃんは単純、山あらしは頑固である。ところが、単純さと頑固さは数学の大きな特徴である。漱石は、数学の、この性格を二人の人物の中に具体化してみせたのだと思う。」

P219-220「リンカーンは貧しい家庭に育った人で、少数の本を精読した人であるが、その中にユークリッドの幾何学があった。彼は論証の力をねるために読んだと言っている。しかし、数学そのものは彼の実務の役には立たず、財政のやりくりはへたであったそうである。リンカーンから四代後の大統領・ガーフィールドはピタゴラスの定理の新しい証明を発見している。フランクリンはアメリカ的合理主義の元祖であると言われているが、彼のほかにも米国の初めの時代には大統領や政治家に数学の好きな人が多かった。そのころの政治家は理屈の通る健康な社会を目ざして奮闘していたと思われる。力のあるものが出世できる社会の気分が数学の気分と似ていたと考えるのはあながちこじつけではないと思う。(略)数学の好きなリンカーンの時代と、プラグマティズムがはばをきかせている現在のアメリカの社会とに大きな相違があることは、やはり、数学が人間の社会に影響されることを示す一つの証明になると思う。」

P228「山あらしは非常な正義感で勇敢な男であるが、正確に偏狭なところがないではない。彼の偏狭さをもっと寛容にするには芸術などの他の学科で補うべきである。数学がたんなる用具学科でないこと、数学もまた人間形成に大切な学科であるということを、われわれ数学教師もいちおうまとめておかないと、他の教科の人に議論を吹きかけられたときに太刀打ちできないので、以上のようなことを考えてみた。」

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