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2021年7月20日火曜日

7月20日火曜日/相武台・相模原

◇ 相武台・相模原

 朝、森本毅郎のラジオをつけていたら、こちらでもしきりに小山田圭吾の件を扱っている。コメンテーターが、小山田を知らないということをわざわざ言いながら非難していて、一般的な反応というのはどうやらこういうものだ。今日も朝から県央地区に。昨日のカラオケが効いたか、今日は朝からやけに元気がある。ペットボトルを2本半飲み干し、昼間にまた、スギ薬局に寄り、アイスチョコモナカを買って食べた。

 先週、小田急沿線の近場のブックオフにはだいたい寄ってしまい、ほかに寄れる古本屋はないかとグーグルマップで検索すると、相武台前に2店見つかり、今日はここに寄ってみることにした。海老名から2駅、相武台前駅で降りるのは初めてだ。駅に近いほうから、まず、青木書店という店に行ってみる。商店街のはずれといえばいいのか、店の向かいには公園があり、視界をさえぎる建物もなく、公園の手前からよく見えた。ひと時代前からやっている雰囲気の古本屋で、ブックオフにはないような本がごろごろあったが、傷んでいるものが多く、けっこうじっくり探したが、なにも買えなかった。棚の新陳代謝も悪く、いい本はとっくに誰かが買っていってしまっているだろう。青木書店のある通りを北に向かって歩いていく。相武台前駅からは少し離れ、2店目、sabulum(サブルム)という店にたどりついた。ここはさほど古くない、今どきの古本屋だ。アンティークの家具、古道具などを多く扱っているようで、端のほうに本棚が並んでいる。外に百均の本棚が出ていて、そこからもう、好みの本だらけだったが、どうやら、サブカルチャーと文学に強い。外の棚から4冊選び、それから、店内からもなにか買いたくなり、もう1冊、計5冊買っていく。「ブックオフ大学」もあり、この本、私も書いてるんですよと、よっぽど言おうかと思ったが、言わずに出ていく。また訪ねたい店だが、相武台前にくる用はなかなかないか。それから、相武台前のつぎの駅、小田急相模原まで歩いていく。駅の向こうに3店目、二の橋書店という店があったが、ここはカフェもやっていて、店内に入るのはやめた。外の均一本だけ見るが、なにも買わなかった。昼食がまだだったが、食欲がなく、駅前のショッピングビルのドトールに入り、アイスコーヒーとブリオッシュショコラを食べる。






◇ 雑誌

 今日は「クイック・ジャパン」の佐藤伸治のインタビューを読みなおしたいと思い、部屋から探し出し、カバンに入れてきていた。1998年発売の18号。「映画:フィッシュマンズ」を観たときには読みなおしたいと思っていたのだが、それからすぐに、初期の「クイック・ジャパン」がこんなに話題になるとは思わなかった。この号にも小山田圭吾は登場している(ジャン・ラムとの対談)。佐藤伸治のインタビューは、1998年3月だから亡くなるちょうど一年前で、前年には「宇宙日本世田谷」が発売されている。聞き手は「編集部」と表記されているが、ひょっとしたら、村上清かもしれない。このインタビューはリアルタイムで読んだから、今、ふり返ってみると、時間の感覚がおかしくなるが、なんだかもっと以前のインタビューのように錯覚していた。この先のフィッシュマンズが、あると思って読むのと、ないと思って読むのとではまったく違う。佐藤伸治の生前、フィッシュマンズが音楽誌で特集されたという記憶がないのだが、表紙を飾ったのは、音楽誌というよりもカルチャー誌である、これと「スタジオ・ボイス」くらいではないだろうか。このインタビューで覚えていたのは、佐藤伸治はテレビをよく観ているということだった。

「なんか、あの、TVとかダラダラ見るじゃないですか。そのー、俺、TVすごい好きなんです。だから「そんなTVばかり見てる人間に、何が出来るんだよ」っていうところもね、音楽にないと、楽しくないかなっていう。だから自分に忠実でさえあれば、何でもいいのかなって。」

(家では音楽を聴くよりも)「TVがどうしてもね、メインですね(笑)。この一、二年特に。俺ね、あんま人と騒ぐのが好きじゃないんですよ。なんかTVとかに走っちゃうタチなんですね(笑)。」「例えば土日はプロレスでしょ、とりあえず。あと『電波少年』と……『ガキの使いやあらへんで!!』。あの辺は全部見るから(笑)。あと『ガサ入れ』とか、あの辺はちょっと見ます。」

「あとやっぱ、12チャンのね、あのー、素人のドキュメントみたいなのあるじゃないですか。なんか……脱サラして居酒屋を作るとか。」「そういうのがもう……たまんないんだよ最近(笑)。借金一億とか、そういうの。うん、ああいうのがやっぱね、リアルなんだよね、すごく。そういう音楽がほんと作りたい。ああいう、普通っぽい音楽が。そうそうそう。」「『警視庁二四時間』とか、ああいうのはあんまり好きじゃない。でも〝ドロンズ〟の、あの旅のやつあるじゃないですか、ああいうのはすげー好きかな俺。なんか(笑)。」

(テレビをわざわざ録画することはあるかと訊かれて)「ありますよ。プロレスとか、確実に。……プロレスももう、あのー、猪木も長州も引退試合だから、ダメかもしれないですね。……あ、でもね、俺、心境としては、そういうのに近いかな。プロレスラーとか。」「長州は、すごいリアルなんですよ、やっぱり。なんかおっさん臭ーい感じが。二人とも全然タイプは違うんだけど。ああいうのがすごい好きかな……。うん。で、まぁ、音楽でそういうのが出来たらすごくいいなーと思う。」

「なんか「わかった」っていう感じがね、プロレス見てるとよくあるんですよ。あと、『朝まで生テレビ』。すごい好きっすね。」「いやもう、なんか役者揃いで。……でもあれ、一生懸命内容をわかろうとするんだけど、全然分からないですね。……やっぱ、議論してるメンバーの強い人と弱い人の、あの感じがすごい好き。意見言ってもすぐ潰されちゃう奴とかいるでしょ(笑)。「声のデカい奴が勝ちなんだな、この場は」っていう。ああいう感じが好きなんですよ。」

 ツイッターを見ると、近田春夫が、小山田圭吾の後任に名乗りをあげていて笑った。前回の東京五輪は三波春夫、今回は近田春夫で決まりだと。ふざけているひとがいるとほっとする。小山田圭吾は、楽曲が使われていたEテレの番組も放送差し替えになってしまった。こんなことにまでなるのかとただただ驚く。オリンピック・パラリンピックにさえ関わらなければ、ここまでの事態にはなりようがなかった。電車内で流れているニュースの画面には、小山田圭吾の顔が映されていた。ツイッターでさまざまな発言を追いかけてみると、小田嶋隆と町山智浩はめちゃくちゃで、ツイッター中毒者というのはまったく手の施しようがない。真っ当なのは東浩紀。それから、ついに、当事者のひとりといっていい北尾修一が述懐を始めようとしている。


◇ ラジオ

 夜遅くに帰宅し、タイムフリーで、昨日の「ビバリー昼ズ」(ゲスト・宮藤官九郎)を聴いた。それから、ほかのラジオもいくつか、テレビも観ていたが、記憶がはっきりしない。少し眠り、深夜1時からは「爆笑問題カーボーイ」をオンタイムで聴いた。「サンジャポ」での太田の発言が炎上しているということで、冒頭からそれについて語られ、太田のひとり語りは1時間20分続いた。太田光は真摯なひとだ。「サンジャポ」でも語っていたこと、つまり、小山田の行為そのものを時代が容認していたということを言ったのではなく、あのようなインタビュー記事を時代が容認していた、それも、時代のすべてが容認していたわけではなく、そのような局面があの時代の一部にはあった、その背景も含めて考えなければならないということを、丁寧に、丁寧に、言葉を尽くして語っていた。後半に特に強調されていたのは、小山田の行為を、小山田の発言だけを根拠にして、事実と判断するのは危険だということだ。ツイッターなどで一般人が騒ぐのはともかく、報道機関や、プロのジャーナリストたちがそれをやっていることは問題ではないのか。テレビでも雑誌でも、小山田の行為について検証したところは一社でもあるのだろうかと、検証もせずに、ひとりの人間を叩きのめしていることが、どうなるか、つい最近もそういう事例があったじゃないかと。そのあとは、ぱっといつものトーンに切り換わり、通常のコーナーになっても、今夜は番組を最後まで聴いた。

2021年7月15日木曜日

7月15日木曜日/「映画:フィッシュマンズ」

◇ テレビ・ラジオ・ニュース

 金の計算をしてみると、今月は余裕を作れたものの、9月に地獄を迎えることになりそうで、気が重い。すり減らした神経を、文章を書くことで治癒していくような感覚があり、このブログはいよいよ大事なものになってきた。午前中に、録画していた昨夜の「あちこちオードリー」(ゲスト・オアシズ)と、「はなつまみ」(ゲストMC・河合郁人)を観た。昼間はラジオ。「ビバリー昼ズ」を途中からつけ、続けて、「ナイツ ザ・ラジオショー」を聴く。オープニングで、昨日、水道橋博士と対談をしたという話をしていて、浅草キッドが京丸・京平と「テレビ演芸」で対戦したときの話があったようだ。それから、さまぁ~ずとも共演したそうで、さまぁ~ずは墨田区出身だから、ナイツよりもじつは浅草に詳しいという話をしていた。

 ツイッターを見ると、トレンドに小山田圭吾の名があり、なにかと思えば、オリンピック開会式の音楽を担当するようだ。ショーディレクターが小林賢太郎、音楽監督は田中知之で、小山田圭吾は複数いる作曲家のうちのひとり。検索してみると、30年近く前の「クイック・ジャパン」のインタビューで語っていたいじめの件を未だに引っぱり出されて非難されている。小林賢太郎もあの時代の「クイック・ジャパン」に推されていたが、このメンバーに依頼した人物はいったいどういう人物なのか。

 午後、ヤマトの営業所まで。それから、二俣川に出て、横浜駅に移動する。ビブレのブックオフに寄り、110円の文庫本ばかり、4冊買った。どこかで食べようと思いながら歩くが、食欲も中途半端で、決められない。つけ麺を食べたい気がして、ラーメン屋を見つけるたびに覗いてみるが、つけ麺はやけに値段が高い。つけ麺があるかわからない店もある。西口から跨線橋を渡り、平沼のブックオフにも寄る。こちらでは2冊買う。ハマのドン、藤木幸夫の本が買えた。もう歩くのもめんどうになり、ブックオフの隣りのガストに入り、から好し定食を食べた。読書をするが、しかし、あんまりのんびりしてもいられず、40分ほどで出る。会計時、店員の女の子が、楽天ポイントの加算にもたついていて、元気よくカードを返されたが、あとでレシートを見ると、どうもポイントがついてない気がする。明らかにごまかしたふうの元気のよさに、笑ってしまいそうになった。ツイッターからニュースを確認すると、東京の新規感染者数は 1308人に。





◇ 映画

 桜木町まで歩き、コレットマーレの地下の西友で飲みものだけ買い、上階の横浜ブルク13 で、「映画:フィッシュマンズ」を観た。この映画をいつ知ったのかは忘れてしまったが、なにはなくとも、この映画だけは観ておかなければならないと思っていた。1階に貼ってあったポスターが、「100日間生きたワニ」と並んでいて、たちの悪い冗談のようだった。この映画こそ、主役が死ぬことがわかっている。映画は、墓参りのシーンから始まった。1999年3月、佐藤伸治の死は、当時、新聞記事で知った。祖母が新聞を読んでいて、若いひとが死んじゃったと驚いているので、誰かと思えば佐藤伸治だった。葬儀の様子など、この映画で初めて知ることが多く、もちろん、当時はネットのある時代ではないから、死後、積極的に情報を得ようという発想もなく、音楽雑誌などを待たねばならなかったが、しかし、それでもそれらをあんまりチェックしていたという記憶もないのは、なにかやっぱり、それがいやだったのか。個人的には、前年には友だちが死んでいた。そういえば、友だちと同じ日に死んだのが Xの hideで、佐藤伸治よりもマスコミの扱いははるかに大きかったが、若いミュージシャンの訃報が続くような感覚もあったかもしれない。90年代末の空気というのを、先日の「昭和50年男」を読みながらも、思い返していた。映画は、残されたさまざまな映像と、現在の映像、近しいひとたちの証言が、組み合わさって進んでいく。YO-KING が登場したのが意外だったが、佐藤伸治とは一緒に少年野球をやっていたそうで、それも知らなかった。佐藤伸治の母のすがたを見るのも初めてで、幼少期の佐藤伸治のことなど、今まで考えたこともなかった。いや、訃報のあとは、佐藤伸治のことを考えるどころか、フィッシュマンズの音楽すら、気軽には聴けなくなってしまった。フィッシュマンズをいつの段階で知ったのかというと、初めて買ったアルバムは「ORANGE」で、中古で買ったから時期がはっきりしない。買った店は覚えているのだが、そのとき、すでに「空中キャンプ」は出ていただろうか。フィッシュマンズといえば、3人になってからの印象が圧倒的に強いのだが、いちばんよく聴いたアルバムは「ORANGE」だ。過去のアルバムをそれから中古で買いそろえ、「空中キャンプ」もおそらく中古で買った。音楽雑誌のインタビューなどを追いかけるようになったのはそのあとで、それからの情報はわりと知っているのだが、「宇宙日本世田谷」は発売を楽しみにしていたから新品で買ったことは間違いないが、こう思い返してみると、思い入れには釣り合わず、金をあんまり使っていないということに気がついてしまったが、それはさておき、フィッシュマンズというバンドの存在をただ知っただけならば、おそらく、それよりももっと早いはずだ。映画のなかでは、横澤彪のレコード会社からデビューすることが語られる場面があり、その後、ドラマのタイアップ曲を出すことになり、その宣伝をする場面もあるが、この映画で改めてわかったのは、フィッシュマンズであれ、最初はやはり、当たり前といえば当たり前だが、売れたいと思っていたということだった。別の場面では、柏原譲が、同期のウルフルズやスピッツに比べると売れなかったということを語っている。ファンならば、フィッシュマンズはそんな次元のバンドじゃないと思ってるけど、佐藤伸治にしても、売れないことを気にしていたんだということには新鮮に驚かされた。特別なバンドになる以前のフィッシュマンズがこの映画にはたっぷりと収められていて、当時のメンバーにしたって、その後のフィッシュマンズがどうなるかなんて知らない。この映画は、メンバーが辞めていく歴史でもあった。学生時代からの仲間が辞めたり、バンドは売れないというなかで、あのフィッシュマンズになっていく。佐藤伸治が、曲よりも詞を先に作っていたということにも驚いたが、詞は初期のころからすでに素晴らしい。それがあの音になっていったのは、プライベートスタジオの存在が大きかったというのも改めてわかった。スペースシャワーの番組に出演して、そのことをしゃべっている映像もいくつか使われていたが、当時、それらを観ていて、知っていたかもしれないが、そこに至る経緯はそのときにはわからない。しかし、この映画を観て新たな印象をもったのは「宇宙日本世田谷」というアルバムで、あの名盤が、じつは、柏原譲の脱退につながっていく。佐藤伸治の死後に発売された「男達の別れ」というライブ盤を長らく誤解していたが、あの別れは、柏原譲の脱退を指していたのだ。それもわからないくらいに情報をチェックしていなかったのかと思うが、1998年12月にこのライブがあり(映画には、ライブでの佐藤伸治のセリフが印象的に登場する)、翌年3月には佐藤伸治が亡くなる。脱退からのその期間が短く、3人組のイメージがいつまでも強いのだが、最後は佐藤伸治と茂木欣一の2人組だったのであり、この映画のもうひとりの主役はまぎれもなく茂木欣一だった。この映画にはさまざまな人物が登場するが、茂木欣一だけが、佐藤伸治と同じように、今もなお、純粋な眼をしている。現在、スカパラという超ポピュラーなバンドのメンバーであるせいもあるだろうが、この眼は辞めていったメンバーにはなかったもので、茂木欣一はやはり最後まで残るひとだったのだと思わせる。辞めていったメンバーのほうが、ある面では、まともな人間の眼をしていた。3時間弱という長さの映画だが、いつまでもこの続きを観ていたいくらいだった。

 Spotify で「男たちの別れ」のライブ盤を聴きながら、みなとみらいを横浜駅まで歩いて帰ってきた。夜遅くに帰宅し、録画していた「NHK MUSIC SPECIAL」、「松本隆 50年 時代と人をつないだ作詞家」を観てから眠る。

 

 

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5月20日土曜日/「THE SECOND」

◇ 神保町  朝から都内に。小雨だが、予報ではすぐに止みそうなので、傘はもたずに出た。気温も読めず、パーカーを着ていく。今夜は「THE SECOND」を観なければならないから、余力を残しておきたかったが、想定していたよりも時間に余裕が作れなかった。昼は神保町。土曜はランチをや...