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2023年9月8日金曜日

9月8日金曜日/改札から出るのも自由



◇ 新木場

 昨夜は涼しく、寒いくらいで、開けていた窓を閉めた。外は大雨。朝から都内に。服装に迷い、だいぶもたついてしまった。Tシャツでは寒いかと思い、パーカーを着ていく。午前中、ちょっとした事故に遭い、これは初めての経験だった。最終的には新木場まで行くことになり、夕方、遅めの昼食。ニコミトスミビという店に初めて入り、夜定食のとりから定食を食べた。770円。ここもQRコードで注文させる邪魔くさい店だ。京葉線、東京駅経由で帰ってくるのも邪魔くさい。

 ひさしぶりに定期券を買ってしまい、どこに通勤するわけでもないのだが、機動力をアップしたくなった。とにかく、こまめに移動をする。さっそく、星川で下車し、マクドナルドに入りたかったが、やけに混雑していたから、やっぱりやめる。定期券で降りたのでなければ、混雑しているのをがまんして店に入ったろう。定期券を手にした今は、改札から出るのも改札のなかに入るのも自由だ。改札内に戻り、ホームのベンチで読書をした。

◇ 読書

 図書館で借りた、東浩紀「動物化するポストモダン」を読み終えた。2001年刊、講談社現代新書。22年前、東浩紀が30歳のときの著書か。今のところ、東浩紀の著書のなかでは、これがいちばんの代表作であり、出世作ということになるだろうが、今まで読む機会がなかった。長らく、東浩紀にはあまりいい印象がなく、興味の対象となったのはわりと最近のことだからだが、その当時に手にとっていても読みこなせなかったかもしれない。この本のなかで重要な作品として紹介されているものがかなりわからなかった。以下、気になった箇所をいくつか引用。

P19「オタク系の作品は、日本を主題とすることが多く、日本的な表現を多用し、いかにも日本的に消費されている。したがって従来の議論では、肯定的にであれ否定的にであれ、オタク系文化が日本独自のサブカルチャーであることが繰り返し強調されてきた。しかし実際には、オタク系文化の影響はいまや広く国外に及んでいる。(略)オタク系文化の展開を、日本国内での通史としてだけではなく、むしろ世界的なポストモダン化の流れのなかで理解してみよう、という本書の企図は、そのような状況認識のもとで抱かれている。筆者は、決して、オタク系文化の出現が日本独自の現象だと考えていない。それはむしろ、二〇世紀半ばに始まった文化のポストモダン化という大きな流れの、日本における支流のひとつだと捉えるべきだと考えている。だからこそ、オタクたちの作品は国境を越えて支持されているのだ。」 P21-23「七〇年代のアニメ作家たちは、大きく表現主義と物語主義の二つに分けられると言われている。(略)そしてまさにこの後者の流れこそが、八〇年代、日本アニメをオタク系文化の中核に押し上げ、また同時に、アメリカで作られる「アニメーション」から遠く離れた、独自の美学をもつジャンルへと成長させていく。つまり、八〇年代以降のアニメを「オタク的なもの」「日本的なもの」としている多くの特徴は、じつは、アメリカから輸入された技法を変形し、その結果を肯定的に捉え返すことで作り出されたものなのだ。オタク的な日本のイメージは、このように、戦後のアメリカに対する圧倒的な劣位を反転させ、その劣位こそが優位だと言い募る欲望に支えられて登場している。それは明らかに、(略)高度経済成長期の国家的な欲望を反映している。そしてこのような欲望は、現在でも、岡田にしろ大塚にしろ村上にしろ、オタク系文化を高く評価する論者たちの文章に共通して見られるものである。(略)オタク系文化の「日本的」な特徴は、近代以前の日本と素朴に連続するのではなく、むしろ、そのような連続性を壊滅させた戦後のアメリカニズム(消費社会の論理)から誕生したと考えたほうがよい。」 P35-36「そして本章の文脈でここで注目すべきなのが、そのオタクたちの幻想が営まれる場所が、江戸時代の町人文化に擬した一種のテーマパークのように描かれていたことである。前掲のコジェーヴをはじめとして、日本の江戸時代はしばしば、歴史の歩みが止まり、自閉的なスノビズムを発達させた時代として表象されてきた。そして高度経済成長以降の日本は、「昭和元禄」という表現があるように、自分たちの社会を好んで江戸時代になぞらえていた。」

P41「ボードリヤールはポストモダンの社会では、作品や商品のオリジナルとコピーの区別が弱くなり、そのどちらでもない「シミュラークル」という中間形態が支配的になると予測していた。」 P90-91「たとえば、シミュラークルの氾濫というオタク系文化の現実は、見方によればとても過激で無政府主義的なものにも見える。しかし実際には、二次創作の作家にはそのような攻撃的意識は見られない。彼らはむしろ、一方で原作を躊躇なくパロディ化し、切り刻み、リミックスしつつも、他方でその作業をまったく原作の侵害と考えておらず、原作者のクレームが入ったらすぐ二次創作をやめてしまうような保守性をもっている。」

P98-99「他方で「スノビズム」とは、与えられた環境を否定する実質的理由が何もないにもかかわらず、「形式化された価値に基づいて」それを否定する行動様式である。スノッブは環境と調和しない。たとえそこに否定の契機が何もなかったとしても、スノッブはそれをあえて否定し、形式的な対立を作り出し、その対立を楽しみ愛でる。コジェーヴがその例に挙げているのは切腹である。(略)コジェーヴのこの議論は短い日本滞在と直観だけに基づいており、多分に幻想が入っている。しかし、日本社会の中核にはスノビズムがあり、今後はその精神が文化的な世界を支配していくだろうというその直観は、いまから振り返るとおそろしく的確だったとも言える。」

P126「動物化とは何か。コジェーヴの『ヘーゲル読解入門』は、人間と動物の差異を独特な方法で定義している。その鍵となるのは、欲望と欲求の差異である。コジェーヴによれば人間は欲望をもつ。対して動物は欲求しかもたない。」 P135-137「ポストモダンの時代には人々は動物化する。そして実際に、この一〇年間のオタクたちは急速に動物化している。その根拠としては、彼らの文化消費が、大きな物語による意味づけではなく、データベースから抽出された要素の組み合わせを中心として動いていることが挙げられる。彼らはもはや、他者の欲望を欲望する、というような厄介な人間関係に煩わされず、自分の好む萌え要素を、自分の好む物語で演出してくれる作品を単純に求めているのだ。とはいえ、このような主張には反論があるかもしれない。なるほど、オタクたちが作品に向ける態度は動物化しているだろう。(略)しかし彼らは同時に、それなりに社交的な人々としても知られているのではないか。(略)ところがそうではないのだ。なるほど確かに、ポストモダンのオタクたちも「人間」であり、欲望と社交性を備えている。しかしその欲望と社交性のありかたは、やはり、かつての近代的な人間からずいぶんと離れているのである。」

P153「たとえば、本や雑誌は今後も出版され続けるだろうが、その構成や文体はますますウェブページに近づいていくだろうし、映画は今後も上映され続けるだろうが、その演出や編集はますますゲームやビデオクリップに近づいていくだろう。」

◇ ラジオ

 夜に帰宅するが、疲れてしまい、テレビを観る気力もない。寝っ転がって、タイムフリーで、今日の「ビバリー昼ズ」を聴いた。12時台ゲストは水森かおり。あとの番組の中川家礼二もこちらのスタジオに顔を出しにきたようだ。演芸人とのつき合いが多く、ナイツやサンドウィッチマンだけでなく、ロケット団やあぁ~しらき、あるいは、パーマ大佐とアイドル鳥越ともコラボをしているんだって。友近の名前も出て、高田先生が友近をとても褒めていたのが珍しかった。高田先生のツッコミもだんだん遠慮がなくなっていく。

 Spotify のポッドキャストで、少し前に配信された「笑い飯哲夫のサタデー★ナイト仏教」を聴いた。FM大阪で放送されている番組だが、ゲストに横山剣さんが出ていて、この出演はインスタから知った。珍しい顔合わせ。聴きながら、22時頃には眠る。

2023年8月24日木曜日

8月24日木曜日/返却する必要があった

◇ 神田・星川

 朝から都内に。昼食は神田駅の近く、テング酒場に入り、日替わりランチの豚肉の味噌炒め&鶏の唐揚げというのを食べた。750円。そのあとには神保町のほうに移動したのだが、せっかく神保町にいるのに、今日は図書館の本を返却する必要があるため、早めに横浜に戻らなければならなかった。半蔵門線に乗り、渋谷からは東横線。座らずに急行に乗るのもつらいと思い、各停を待ち、座っていく。少しだけあった時間の余裕はここで使いきった。星川で下車、保土ヶ谷図書館に閉館20分前に飛び込み、3冊返却し、1冊だけまた選んで借りていく。

◇ 読書・テレビ・雑誌

 マクドナルドに入り、ひと休み。スマホの充電をしたかったのだが、読みかけの本も読み終えてしまいたかった。図書館で借りている、東浩紀・大山顕「ショッピングモールから考える」を読み終えた。2016年刊、幻冬舎新書。ゲンロンカフェで行われた3回の対談をもとに、まずは、2015年に電子書籍として発行されものを、新たに座談会を加え、増補版としたのがこの本。放談の面白さで、すいすいと読んだ。商店街に対し、ショッピングモールを批判的に捉えることへの疑問から、ショッピングモールの新しい公共性を考える。テーマパークとの共通性は、以前に読んだ隈研吾の本で語られていたことともつながる視点だと思った。

 コーナンで買いものしてから、夜に帰宅する。録画していたテレビ番組をいくつか。今日の「徹子の部屋」は伊藤英明がゲスト。昨夜の「あちこちオードリー」は、SixTONES の高地優吾、みなみかわ、カカロニという不思議な組み合わせ。楽天マガジンで雑誌のチェックををすると、「週刊文春」の「新・家の履歴書」にはキンタローが登場。「私の読書日記」は吉川浩満の担当。この欄は吉川浩満のときがいちばん面白い。飯田一史「「若者の読書離れ」というウソ」という本に興味が湧く。

 アマゾンマーケットプレイスに購入者からメールがあり、追跡番号ではお届け済みになってるけど、届いてないから返金してくれって。不躾なひとがいるもんだな。本当に届いてないのだとすると郵便局の配達の問題なのに、しかたがないから、日本郵便のホームページから問い合わせのメールをする。微々たる利益のためにこの手間かと思うとじつに情けない。深夜1時前に眠る。

2023年7月23日日曜日

7月23日日曜日/刺激的な対論集

◇ テレビ・ラジオ

 朝に起きあがり、録画していたテレビ番組をいくつか。昨夜の「27時間テレビ」の続きを観てから、もう少し眠りなおす。ブログを更新し、午後はラジオ。「爆笑問題の日曜サンデー」をつけておく。14時台ゲストはピンクの電話。「ザ・テレビ演芸」での横山やすしの思い出を興味深く聴いた。清水よし子がずっと可笑しかったなあ。田中を「職人の目」と呼ぶよっちゃん。田中は、かまいたち山内、ハナコ岡部などと同じ「職人の目」なんだって。

 午後もまた、録画していたテレビ番組をあれこれと。今朝の「サンデージャポン」では、ビッグモーターの保険金水増し請求問題をトップに扱う。クルマに詳しいテリー伊藤がひさしぶりにVTRに登場した。そのあとは、ジャニーズの性加害問題、猿之助の再逮捕など。番組後半には、マクドナルドの値段の話題があり、都心店と通常店では値段に差があるといって、ちょうど、横浜の店舗が例に出されていた。西口の店舗では500円のビッグマックが、ベイクォーター店は450円なんだって。知らなかったな。

 今日の「笑点」を観ると、どうやら構成が変わったようで、いちばん最初にオープニングアニメがあってからCMに入った。演芸は母心。嶋川が富山の県議会議員になり、今は政治家ネタばっかりになってるんだろうか。

 観そびれていた「ガキの使いあらへんで!!」数週分を順に観ていくと、7月2日の放送では「海外オーディション番組エントリー映像撮影会」という企画があり、ココリコ遠藤、スパイシーガーリック、バンビーノ、インポッシブル、GO!皆川、風船太郎が出演し、外国人の観客の前でネタを披露した。とにかく明るい安村の成功を受けてのこの企画だが、トンツカタン森本とフワちゃんの「Thursday Night Show」では、同様の趣旨の企画をそれ以前からやっていたのにな。風船太郎は別にこの番組でピックアップするまでもないのではと思うが、それにしても、この番組では言語の壁を超えることにばかり囚われすぎている。最後に中村プロデューサーが出てきたのにいたっては本当に余計だった。

◇ 読書・ポッドキャスト

 夜は部屋で読書をする。図書館で借りていた、東浩紀「新対話篇」を読み終えた。2020年刊、ゲンロン。東浩紀の 2010年代の対談を10本収録、その対談相手は、梅原猛、鈴木忠志、筒井康隆、中沢新一、加藤典洋、國分功一郎、五木寛之&沼野充義、高橋源一郎、原武史、飴屋法水&柳美里という顔ぶれ。なかなかのボリュームの本だが、飽きるところなし、すべての対談が刺激的で面白かった。この本をきっかけにして、読みたい本がさらに増えていく。以下、気になった箇所をいくつか引用。

P6-7「ぼくはもともと、現代思想と呼ばれる「最先端」の哲学を学び、その蓄積のうえで批評家として仕事を始めた人間である。だから、ある時期までは、それら「最先端」の言葉をつかって、社会を分析したり、作品を解読したり、ひとを批判したりするのが大切なことだと信じていた。けれども、震災と原発事故以降、そのような「最先端」への信頼はすっかり衰えてしまった。「最先端」の知識をもつはずの人々が、政治や社会の具体的問題について、おそろしく素朴で、愚かな発言しか行わない例を無数に見てしまったからである。それゆえぼくは、いつのころからか、かつて学んだこととは逆に、哲学の本質とは結局はひとりひとりの人間との対話でしかないのではないかと、知識や分析なんてなんの役にもたたないのではないかと、そのように考えるようになってしまった。ゲンロンカフェの経験がその確信を後押しした。店にはたくさんのお客さんがくる。放送はさまざまなひとが視る。彼らの多くは哲学の歴史などなにも知らない。けれども、なにかを学び、考えたいと思って、ぼくのもとに話を聞きに来る。その彼らの願いに触れることができずして、なにが言論だろうか。流行の言葉を弄び、政治や公共を語り、そのくせじっさいには狭い学者仲間と編集者仲間しか視野に入っていない、そんな多くの「言論人」は、この原点を忘れている。」

P47 鈴木忠志「わたしも、共同体のルールを確立しなければいけないというのは理解できる。人間どうしが仲よくするために、暴力をふるってはいけない、強姦をしてはいけない、こういう日本語を使いましょう。こういうふるまいでいきましょうと、それが「文化」と呼ばれるものです。そして、共同体の結束のために、こうした「文化」を支えるのが行政です。けれども、わたしは、芸術や演劇というのは、そもそもその種の共同性から脱落したひと、そうした共同体の質に対して批判的なひとがやり始めたものだという認識なんですよ。そして公共性にいたるんです。とくにグローバリゼーションの時代には。」 P49-50 鈴木忠志「要するに、ひとつの権力なり共同体が、そこに所属するひとにある恐怖を与えて、財産や富を取り上げ、それをみなに配分する。そのとき、被征服者が征服者に保護の義務を課し略取を承認することで国家が生まれ、「契約」の概念が成立する。つまり国家というのは、暴力のある種の変形です。その暴力を暴力に見せないようにしたのが、いまの行政システムなんです。」

P79 筒井康隆「ぼくは戦争の悲惨さも知っているし、おもしろさもよく知っている。」 P83 筒井康隆「作家になる前から、やることがすべて無駄になる、なにも成功しないというテーマのものが好きでした。(略)無力感を表現することは、デビュー以来、ひとつのテーマでした。」

 Spotify で、長野智子のポッドキャスト「長野智子のテレビなラジオ」を、1月に配信されていた三宅恵介がゲストの回を「27時間テレビ」を観たこのタイミングで聴いてみたくなった。「心はロンリー」のファイナルをやろうとしているという話が気になるではないか。ポッドキャストを聴きながら、深夜1時頃には眠る。

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2023年7月4日火曜日

7月4日火曜日/うるさくていらいら

◇ テレビ

 早朝から眠り、午前中にブログの更新をしようとするが、調子が出ない。録画していたテレビ番組をいくつか。日曜の「まつい to なかい」は内田篤人とさまぁ~ずがゲスト。この番組、落語会と同じで、独演会なら観たいのだけど、二人会だとこの顔合わせはちょっとというときがある。終盤には yama が登場し、小籔千豊が進行役を務める。ミュージシャンのコーナーももうトークと同じセットでやるようになったのかな。松本のツッコミに一歩も引かない小籔に笑う。

 夕方から外出。ライフのマクドナルドに入り、アイスコーヒーとスパチキを食べる。読書をするためにわざわざやってきたのだが、すぐ隣りの席にガキふたりがやってきて、中学生ぐらいかと思うが、わあわあしゃべっているのが耳障りだ。いらいら。ようやくいなくなったかと思うと、商品を買いなおして戻ってきた。がっかりする。この子らがようやくいなくなったと思ったら、今度は反対側の席にやはり中学生ぐらいの4人組がやってくる。またうるさくなるかと心配したが、彼らは静かにしゃべる子たちだったからほっとした。

◇ 読書

 マクドナルドで、東浩紀「ゆるく考える」を読み終えた。2021年刊、河出文庫。親本は2019年刊。400ページほどの本だが、面白くてすいすい読んだ。収録されているのは、2018年の「日経新聞」の連載と、2008年の「文學界」の連載、これだけで300ページほどになるが、その他は、そのあいだにあちこちの媒体に書かれた雑文。以下、気になった箇所をいくつか引用。P41「天才待望論は資本主義の論理である。才能を買い付け、売り抜ける。編集者もギャラリストも、いつからそんなひとばかりになってしまった。でもそれではだめなのだ。天才を理解し許す聴衆を育てなければ、文化は育たないのだ。いま日本に欠けているのは、その聴衆のほうである。」 P85「SNSの人間関係には面倒がない。だからSNSの知人は面倒を背負ってくれない。そんなSNSでも、たしかに人生がうまく行っているときは大きな力になる。けれども、本当の困難を抱えたときは、助けにならないのだ。」 P172「娯楽性とはなんでしょうか。それはひとことで言えば、こちらにふまじめにしか接してこない人間を、掴み離さない能力のことです(entertain という単語の語源をOEDで調べると、それがかつては「客を保持すること」の意味だったことがわかります)。」 P192「人間は自然には依存すべきだ(というかするしかない)が、社会には依存すべきではない。これがルソーの主張です。」 P231「ぼくは、「書くことで考えること」に心惹かれ、物書きになった人間です。そして、ぼくが文章を書き始めた一九九〇年代の前半には、まだ批評の読者は「書くことで考えること」を許していました。というよりも、それこそが批評だと言われていました。だからこそ、ぼくもまた批評誌で『存在論的』の元原稿を発表することができました。けれども、前述のように、批評をめぐる現在の状況はさまがわりしている。あらゆる言論がネタとして消費され、分析されるその空間では、単語ひとつひとつ、文末ひとつひとつの選択が思考と切り結ぶような悠長なリズムは許されない。ゼロ年代の読者、少なくともその大多数は、異なったタイプの文章を批評に求めています。」 P240「ちなみに、消費社会の問題とアウシュヴィッツの問題は、表面的には対局にあるような印象を与えますが、じつは本質的に繋がっています。そのことを見抜いたのは、ほかならぬハイデガーでした。彼は晩年のあるインタビューで、人間をモノとして処理するガス室のおぞましさは、大量生産大量消費の現代社会一般の問題と通底すると発言しています。この発言はたいへんな反響を呼び、同時に非難を招くことになるのですが(なんといっても、ハイデガーはナチスと関係した哲学者だったのですから)、その政治的かつ道徳的な不用意さは批判されるべきとしても、認識そのものとしては彼の指摘はまったく正しいと言わざるをえません。」 P285-286「というのも、多少とも現代思想に触れたことのあるひとであればご存じのように、二〇世紀後半の人文科学や社会科学はまさに、そんな「ツイッター的状況」について手を替え品を替え考え続けてきたという歴史があるからです。その例はデリダでもいいしルーマンでもいいしクリプキでもいいですが、彼らはみな口を揃えて、言葉が意味を伝えて理解を促進するというのはフィクションだ、コミュニケーションとは要は成立しているから成立しているとしかいいようのない危うい記号の連鎖なのであり、共通の前提などはなく、その根拠の底は抜けているのだと主張していました。コミュニケーションは成立するはずがないが成立する、その逆説について彼らはじつに難解な道具立てを使って語ったわけですが、ツイッターに参加すると、なるほどデリダ/ルーマン/クリプキが言っていたのはこの状況のことだったのかと、いつに素朴に体感することができます。」 P343「個人的な信頼関係などと記すと、それはそれで疑いの目を向けられそうだが、社会を変えるのは、結局のところ、独立した個人と独立した個人のあいだのそのような関係だけではないだろうか。政府は悪、電力会社は悪、「彼ら」が諸悪の根源で「わたしたち」はみな犠牲者だと世界をふたつに分割してしまえば、たしかに耳あたりはいい。政治とは友と敵を分割し、敵を殲滅することだと喝破したのは、ナチス支持で悪名高い法学者、カール・シュミットだが、まずは原発推進なのか反原発なのか、その分割こそを新しい政治の基礎にしようとした震災後の状況は、まさにその友敵理論の戯画的な具現化だったと言える。けれども実際には、政府も電力会社も個人の集合であり、話ができるひともいればできないひともいる。それを見定めてこそ、本当の改革、本当の政治が可能になるのであり、その態度は単純な友敵の分割からは生まれることがない。」

◇ テレビ・ラジオ

 夜に帰宅し、録画していたテレビ番組をあれこれと。今日の「徹子の部屋」は伊藤沙莉がゲスト。5歳上のオズワルド伊藤とのあいだにお姉さんもいるのだね。暗い雰囲気を感じさせないひとだが、じつは一家離散したことがある苦労している家庭だったんだ。昨夜の「しゃべくり007」を観ると、こちらも伊藤沙莉がゲスト。「徹子の部屋」ではテレビ朝日のドラマの宣伝をしていたが、こちらは映画の宣伝だった。同時期に別のプロモーションでバラエティに出ているというのも珍しい感じがする。

 タイムフリーで、聴きそびれていた先週火曜の「ナイツ ザ・ラジオショー」を聴くと、この週の代打パートナーは磯山さやかだった。それから、Spotify で、松尾潔のポッドキャストを聴き、聴きながら眠ってしまい、目覚めると深夜1時過ぎだった。「爆笑問題カーボーイ」をつけ、聴きながらまた眠った。

2023年2月26日日曜日

2月26日日曜日/外出してもラジオ


◇ 神保町

 朝から都内に。昼食は神保町、ガチマヤという沖縄料理の店に初めて入り、ランチメニューの沖縄そば定食を食べた。850円。ふりかけご飯と、お菓子もついている。店内には、安室奈美恵の曲が流れていた。カレーの共栄堂の隣りの店。そのあとは、ベローチェに入り、ひと休み。ラジオを聴きながら、少し眠った。

 先週日曜の昼に放送された「伊集院光のオールナイトニッポン」を、朝の電車で聴き始め、ベローチェで最後まで聴き終えた。「オールナイトニッポン55時間スペシャル」のラインナップで、最後までシークレットだったのがこの枠。番組は「オールナイトニッポン」のそもそもの思い出話から始まり、このあたりはよく語られる話だが、そのあとには「二部祭り」になり、伊集院がニッポン放送で番組をやっていた同時期に「オールナイトニッポン」の二部を担当していたパーソナリティたちがつぎつぎに登場した。20分頃から、まず、久保こーじ、石川よしひろが登場。以下、登場順に、加藤いづみ、北原ゆき、森若香織、渡瀬マキ、真璃子。浪人生だった北原ゆきは現在は放送作家なのか。加藤いづみからは一部を担当していたウンナンのエピソード、森若香織からはとんねるずのエピソードが出たりなど。エンディングには全員勢ぞろい、最後は川村カオリの「ZOO」が流れて終わった。「伊集院光のオールナイトニッポン」とはいうものの、この枠は同窓会的な特番の司会を伊集院が務めたという感じだった。懐かしいムードたっぷりだったが、しかし、今回登場したパーソナリティたちの番組はどれも聴いてなかったな。加藤いづみはのちに一部に昇格し、その時期には少しは聴いたことがあったかもしれない。なにしろ、「電気グルーヴのオールナイトニッポン」を熱心に聴いていたから、ほかのパーソナリティはすべて攻撃の対象のようなもので、それに毒されていた自分は、石川よしひろなんかを聴いてるやつなんて信じられなかったのである。

 ベローチェを出て、裏のアカシヤ書店に寄り、それから、白山通りに出る。タクトを覗き、交差点に戻り、古本屋を覗きながら靖国通りを歩き、ブックパワーRBまで。結局、古本はなにも買わず、裏通りを戻り、すずらん通りに。東京堂に寄り、1階、2階、3階と、すべてのフロアを見てまわった。


 神保町から半蔵門線に乗り、渋谷に移動する。まんだらけに寄り、階段の百均から1冊だけ買っていく。店内は外国人の客も多い。センター街を抜けようとすると、ドン・キホーテで売っているのか「10円パン」と書かれた箱をもったひとをちらほら見かけた。流行ってるのかな。東横線の特急で横浜に戻り、ビブレのブックオフにも寄ろうかと思っていたが、アプリのクーポンを確認したらもう使用済みだったからやっぱりやめる。有隣堂を少し覗いてから帰る。

◇ 読書・テレビ・ラジオ

 帰りの電車内で、東浩紀「弱いつながり 検索ワードを探す旅」を読み終えた。2016年刊、幻冬舎文庫。親本は2014年刊。文庫解説は杉田俊介。長いあいだ、東浩紀にはあまり関心がなかったが、去年、「ゲンロン戦記」という本を読んだら共感するところだらけで、ほかの本も読んでみたくなった。この本も、こういっては図々しいが、なんだか今までの自分を肯定してもらったような気にさせられた。そういえば、もう十数年前のことだが、自分のブログを読んでいるというひとに会ったら、東浩紀の話をされて、その時点では読んだことがなかったから、なに言ってるんだかぜんぜんわからなかったということがあったが、ブログにこういうことを書くひとは東浩紀はもちろん読んでるでしょうという感じだったんだろうか。

 夜に帰宅し、録画していたテレビ番組をいくつか。昨夜の「Nキャス」では、がらがらだった志摩スペイン村が人気になっているというニュースが気になった。YouTuber とコラボしたのがきっかけなんだって。笑福亭笑瓶、松本零士の訃報が続けて扱われる。笑瓶は、亡くなる6日前に「噂の!東京マガジン」の収録に参加していたのだ。

 今朝の「サンデージャポン」を観ると、この番組では「ルフィ強盗団」を連続して扱っている。小川泰平、秋山博康のコンビが今週も登場。そのあとには旧統一教会問題を扱い、元2世信者の小川さゆりさんを鈴木エイトが取材する。そのあとには、1年が経ったロシアのウクライナ侵攻を扱い、小原ブラスが出演した。この番組は、ロシアのことも旧統一教会のことも、名物コメンテーターを発掘しつつ、きちんと継続して扱っている。しかし、そういえば、笑瓶の訃報には触れられなかった。

 今日の「笑点」も観る。一之輔さんはレギュラーになって以降、ずっとオープニングに登場している。演芸コーナーにはポカスカジャンが登場。2人体制になってからは初めてじゃないか。50音ミュージックと、魚河岸のフラメンコ、いずれも初期のころからやっている鉄板ネタ。評判が気になり、ついついツイッターで検索してしまうと、2人だけになっていることに驚いているツイートが多数ありながらも、好評なツイートが多くてなによりだ。

 タイムフリーで、「オールナイトニッポン55時間スペシャル」の番組をもうひとつ、先週日曜の夜に放送された「明石家さんまのオールナイトニッポン」を聴いた。時間的に、聴けるのはこれが最後の1本。「オールナイトニッポン」よりも「セイ!ヤング」を聴いていたというさんまは、落合恵子のクレヨンハウスに絵本を買いに行ったこともあるようだ。今回の番組は小西マサテルが作家に入っていて、さんまは小西の本を読んでいるが、本を読むのに1冊3ヶ月ぐらいかかるという。そして、今回の目玉、ゲストの鶴瓶が登場すると、若手時代からの先輩後輩エピソードには尽きることがない。2匹のけものが互いに甘噛みしあっているようなトークを展開する。鶴瓶は番組最後までは残らず、そのあとには、さんまから「オールナイトニッポン」の思い出が語られたが、このさんまのひとりしゃべりはじつに鋭いものだった。テレビのさんまでは、この話術はなかなか聴けないのである。

2022年2月19日土曜日

2月19日土曜日/泉岳寺にて




◇ 泉岳寺

 早朝に目覚め、ラジオをつけると、「木梨の会」にしずるが出演していた。この番組は聴いたり聴かなかったりで、どういう流れでそうなったのか、しずる村上の姉がとんねるずのファンだそうで、姉と一緒にしずるも生出演ということになったようだ。とんねるずとは今まで共演はなく、村上もかなりのとんねるずファンだったようだが、吉本だからあまり語られることはなかったのかもしれない。そういえば、しずるにはダウンタウンの影響があまり見えない。

 今日は朝から都内に。京浜急行に乗り、泉岳寺まで出て、コンビニでコロッケパンを買い、歩きながら食べた。今月は珍しいところを訪問する機会がやけに多く、今日も身分証の提示が必要な場所だ。そのあとは大手町に移動するが、屋外にいると寒くてしかたがなく、午後には、雨がぱらつき始める。不要なビニール傘をもらうことができたので助かった。昼食は遅くなり、八重洲地下街のアルプスで、タイムサービスのチキンカレーを食べた。300円に加え、トッピングで、80円のから揚げも乗せてもらった。それから、地上に出て、ベローチェに入り、ブレンドと、あんぱんを食べた。スマホの充電をしながら、しばらく読書をしていく。


◇ 読書・雑誌・ラジオ

 東京駅から東海道線に乗り、電車内で、東浩紀「ゲンロン戦記」を読み終えた。2020年刊、中公新書ラクレ。東浩紀がゲンロンという会社を経営してきた10年を語った本で、聞き手・構成を石戸諭が務めている。東浩紀というひとは、ツイッターでのふるまいから、好きでなかった時期もあったが、この本を読んでみたら、共感する部分がとても多かった。「観光」というテーマには、特に、はっとさせられた。ここ数年、観光客(観客)の視点に立つということは自分にとってもテーマだと考えていたからだが、それを肯定してもらえたような気にはなるものの、しかし、自分が考え始めるよりも、とっくの前に東浩紀は語っていたのかと思うと愕然とさせられもする。「ゲンロンカフェ」に関する葛藤は、「ひとつき十冊」について考えていたこととも重なった。

 夜に帰宅し、録画していたテレビ番組をいくつか。タイムフリーで、今朝の「ナイツのちゃきちゃき大放送」を聴くと、土屋さんが復帰し、オープニングの漫才もひさしぶりに復活した。ラジオを聴きながら、楽天マガジンで雑誌のチェックもする。「DVD&動画配信でーた」を読んで、配信映画、配信ドラマをチェックするのがお決まりになってきた。今、いちばん楽しみにしている月刊誌かもしれない。ブログの更新をして、それから、聴きそびれていた先週土曜放送の「ランジャタイのオールナイトニッポン0」も聴いた。タイムフリー切れぎりぎりに聴くのはまずいと思いながらも、やっぱり、聴きながら眠ってしまった。

2021年7月20日火曜日

7月20日火曜日/相武台・相模原

◇ 相武台・相模原

 朝、森本毅郎のラジオをつけていたら、こちらでもしきりに小山田圭吾の件を扱っている。コメンテーターが、小山田を知らないということをわざわざ言いながら非難していて、一般的な反応というのはどうやらこういうものだ。今日も朝から県央地区に。昨日のカラオケが効いたか、今日は朝からやけに元気がある。ペットボトルを2本半飲み干し、昼間にまた、スギ薬局に寄り、アイスチョコモナカを買って食べた。

 先週、小田急沿線の近場のブックオフにはだいたい寄ってしまい、ほかに寄れる古本屋はないかとグーグルマップで検索すると、相武台前に2店見つかり、今日はここに寄ってみることにした。海老名から2駅、相武台前駅で降りるのは初めてだ。駅に近いほうから、まず、青木書店という店に行ってみる。商店街のはずれといえばいいのか、店の向かいには公園があり、視界をさえぎる建物もなく、公園の手前からよく見えた。ひと時代前からやっている雰囲気の古本屋で、ブックオフにはないような本がごろごろあったが、傷んでいるものが多く、けっこうじっくり探したが、なにも買えなかった。棚の新陳代謝も悪く、いい本はとっくに誰かが買っていってしまっているだろう。青木書店のある通りを北に向かって歩いていく。相武台前駅からは少し離れ、2店目、sabulum(サブルム)という店にたどりついた。ここはさほど古くない、今どきの古本屋だ。アンティークの家具、古道具などを多く扱っているようで、端のほうに本棚が並んでいる。外に百均の本棚が出ていて、そこからもう、好みの本だらけだったが、どうやら、サブカルチャーと文学に強い。外の棚から4冊選び、それから、店内からもなにか買いたくなり、もう1冊、計5冊買っていく。「ブックオフ大学」もあり、この本、私も書いてるんですよと、よっぽど言おうかと思ったが、言わずに出ていく。また訪ねたい店だが、相武台前にくる用はなかなかないか。それから、相武台前のつぎの駅、小田急相模原まで歩いていく。駅の向こうに3店目、二の橋書店という店があったが、ここはカフェもやっていて、店内に入るのはやめた。外の均一本だけ見るが、なにも買わなかった。昼食がまだだったが、食欲がなく、駅前のショッピングビルのドトールに入り、アイスコーヒーとブリオッシュショコラを食べる。






◇ 雑誌

 今日は「クイック・ジャパン」の佐藤伸治のインタビューを読みなおしたいと思い、部屋から探し出し、カバンに入れてきていた。1998年発売の18号。「映画:フィッシュマンズ」を観たときには読みなおしたいと思っていたのだが、それからすぐに、初期の「クイック・ジャパン」がこんなに話題になるとは思わなかった。この号にも小山田圭吾は登場している(ジャン・ラムとの対談)。佐藤伸治のインタビューは、1998年3月だから亡くなるちょうど一年前で、前年には「宇宙日本世田谷」が発売されている。聞き手は「編集部」と表記されているが、ひょっとしたら、村上清かもしれない。このインタビューはリアルタイムで読んだから、今、ふり返ってみると、時間の感覚がおかしくなるが、なんだかもっと以前のインタビューのように錯覚していた。この先のフィッシュマンズが、あると思って読むのと、ないと思って読むのとではまったく違う。佐藤伸治の生前、フィッシュマンズが音楽誌で特集されたという記憶がないのだが、表紙を飾ったのは、音楽誌というよりもカルチャー誌である、これと「スタジオ・ボイス」くらいではないだろうか。このインタビューで覚えていたのは、佐藤伸治はテレビをよく観ているということだった。

「なんか、あの、TVとかダラダラ見るじゃないですか。そのー、俺、TVすごい好きなんです。だから「そんなTVばかり見てる人間に、何が出来るんだよ」っていうところもね、音楽にないと、楽しくないかなっていう。だから自分に忠実でさえあれば、何でもいいのかなって。」

(家では音楽を聴くよりも)「TVがどうしてもね、メインですね(笑)。この一、二年特に。俺ね、あんま人と騒ぐのが好きじゃないんですよ。なんかTVとかに走っちゃうタチなんですね(笑)。」「例えば土日はプロレスでしょ、とりあえず。あと『電波少年』と……『ガキの使いやあらへんで!!』。あの辺は全部見るから(笑)。あと『ガサ入れ』とか、あの辺はちょっと見ます。」

「あとやっぱ、12チャンのね、あのー、素人のドキュメントみたいなのあるじゃないですか。なんか……脱サラして居酒屋を作るとか。」「そういうのがもう……たまんないんだよ最近(笑)。借金一億とか、そういうの。うん、ああいうのがやっぱね、リアルなんだよね、すごく。そういう音楽がほんと作りたい。ああいう、普通っぽい音楽が。そうそうそう。」「『警視庁二四時間』とか、ああいうのはあんまり好きじゃない。でも〝ドロンズ〟の、あの旅のやつあるじゃないですか、ああいうのはすげー好きかな俺。なんか(笑)。」

(テレビをわざわざ録画することはあるかと訊かれて)「ありますよ。プロレスとか、確実に。……プロレスももう、あのー、猪木も長州も引退試合だから、ダメかもしれないですね。……あ、でもね、俺、心境としては、そういうのに近いかな。プロレスラーとか。」「長州は、すごいリアルなんですよ、やっぱり。なんかおっさん臭ーい感じが。二人とも全然タイプは違うんだけど。ああいうのがすごい好きかな……。うん。で、まぁ、音楽でそういうのが出来たらすごくいいなーと思う。」

「なんか「わかった」っていう感じがね、プロレス見てるとよくあるんですよ。あと、『朝まで生テレビ』。すごい好きっすね。」「いやもう、なんか役者揃いで。……でもあれ、一生懸命内容をわかろうとするんだけど、全然分からないですね。……やっぱ、議論してるメンバーの強い人と弱い人の、あの感じがすごい好き。意見言ってもすぐ潰されちゃう奴とかいるでしょ(笑)。「声のデカい奴が勝ちなんだな、この場は」っていう。ああいう感じが好きなんですよ。」

 ツイッターを見ると、近田春夫が、小山田圭吾の後任に名乗りをあげていて笑った。前回の東京五輪は三波春夫、今回は近田春夫で決まりだと。ふざけているひとがいるとほっとする。小山田圭吾は、楽曲が使われていたEテレの番組も放送差し替えになってしまった。こんなことにまでなるのかとただただ驚く。オリンピック・パラリンピックにさえ関わらなければ、ここまでの事態にはなりようがなかった。電車内で流れているニュースの画面には、小山田圭吾の顔が映されていた。ツイッターでさまざまな発言を追いかけてみると、小田嶋隆と町山智浩はめちゃくちゃで、ツイッター中毒者というのはまったく手の施しようがない。真っ当なのは東浩紀。それから、ついに、当事者のひとりといっていい北尾修一が述懐を始めようとしている。


◇ ラジオ

 夜遅くに帰宅し、タイムフリーで、昨日の「ビバリー昼ズ」(ゲスト・宮藤官九郎)を聴いた。それから、ほかのラジオもいくつか、テレビも観ていたが、記憶がはっきりしない。少し眠り、深夜1時からは「爆笑問題カーボーイ」をオンタイムで聴いた。「サンジャポ」での太田の発言が炎上しているということで、冒頭からそれについて語られ、太田のひとり語りは1時間20分続いた。太田光は真摯なひとだ。「サンジャポ」でも語っていたこと、つまり、小山田の行為そのものを時代が容認していたということを言ったのではなく、あのようなインタビュー記事を時代が容認していた、それも、時代のすべてが容認していたわけではなく、そのような局面があの時代の一部にはあった、その背景も含めて考えなければならないということを、丁寧に、丁寧に、言葉を尽くして語っていた。後半に特に強調されていたのは、小山田の行為を、小山田の発言だけを根拠にして、事実と判断するのは危険だということだ。ツイッターなどで一般人が騒ぐのはともかく、報道機関や、プロのジャーナリストたちがそれをやっていることは問題ではないのか。テレビでも雑誌でも、小山田の行為について検証したところは一社でもあるのだろうかと、検証もせずに、ひとりの人間を叩きのめしていることが、どうなるか、つい最近もそういう事例があったじゃないかと。そのあとは、ぱっといつものトーンに切り換わり、通常のコーナーになっても、今夜は番組を最後まで聴いた。

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5月20日土曜日/「THE SECOND」

◇ 神保町  朝から都内に。小雨だが、予報ではすぐに止みそうなので、傘はもたずに出た。気温も読めず、パーカーを着ていく。今夜は「THE SECOND」を観なければならないから、余力を残しておきたかったが、想定していたよりも時間に余裕が作れなかった。昼は神保町。土曜はランチをや...