ラベル ジャン・ボードリヤール の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル ジャン・ボードリヤール の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2023年9月8日金曜日

9月8日金曜日/改札から出るのも自由



◇ 新木場

 昨夜は涼しく、寒いくらいで、開けていた窓を閉めた。外は大雨。朝から都内に。服装に迷い、だいぶもたついてしまった。Tシャツでは寒いかと思い、パーカーを着ていく。午前中、ちょっとした事故に遭い、これは初めての経験だった。最終的には新木場まで行くことになり、夕方、遅めの昼食。ニコミトスミビという店に初めて入り、夜定食のとりから定食を食べた。770円。ここもQRコードで注文させる邪魔くさい店だ。京葉線、東京駅経由で帰ってくるのも邪魔くさい。

 ひさしぶりに定期券を買ってしまい、どこに通勤するわけでもないのだが、機動力をアップしたくなった。とにかく、こまめに移動をする。さっそく、星川で下車し、マクドナルドに入りたかったが、やけに混雑していたから、やっぱりやめる。定期券で降りたのでなければ、混雑しているのをがまんして店に入ったろう。定期券を手にした今は、改札から出るのも改札のなかに入るのも自由だ。改札内に戻り、ホームのベンチで読書をした。

◇ 読書

 図書館で借りた、東浩紀「動物化するポストモダン」を読み終えた。2001年刊、講談社現代新書。22年前、東浩紀が30歳のときの著書か。今のところ、東浩紀の著書のなかでは、これがいちばんの代表作であり、出世作ということになるだろうが、今まで読む機会がなかった。長らく、東浩紀にはあまりいい印象がなく、興味の対象となったのはわりと最近のことだからだが、その当時に手にとっていても読みこなせなかったかもしれない。この本のなかで重要な作品として紹介されているものがかなりわからなかった。以下、気になった箇所をいくつか引用。

P19「オタク系の作品は、日本を主題とすることが多く、日本的な表現を多用し、いかにも日本的に消費されている。したがって従来の議論では、肯定的にであれ否定的にであれ、オタク系文化が日本独自のサブカルチャーであることが繰り返し強調されてきた。しかし実際には、オタク系文化の影響はいまや広く国外に及んでいる。(略)オタク系文化の展開を、日本国内での通史としてだけではなく、むしろ世界的なポストモダン化の流れのなかで理解してみよう、という本書の企図は、そのような状況認識のもとで抱かれている。筆者は、決して、オタク系文化の出現が日本独自の現象だと考えていない。それはむしろ、二〇世紀半ばに始まった文化のポストモダン化という大きな流れの、日本における支流のひとつだと捉えるべきだと考えている。だからこそ、オタクたちの作品は国境を越えて支持されているのだ。」 P21-23「七〇年代のアニメ作家たちは、大きく表現主義と物語主義の二つに分けられると言われている。(略)そしてまさにこの後者の流れこそが、八〇年代、日本アニメをオタク系文化の中核に押し上げ、また同時に、アメリカで作られる「アニメーション」から遠く離れた、独自の美学をもつジャンルへと成長させていく。つまり、八〇年代以降のアニメを「オタク的なもの」「日本的なもの」としている多くの特徴は、じつは、アメリカから輸入された技法を変形し、その結果を肯定的に捉え返すことで作り出されたものなのだ。オタク的な日本のイメージは、このように、戦後のアメリカに対する圧倒的な劣位を反転させ、その劣位こそが優位だと言い募る欲望に支えられて登場している。それは明らかに、(略)高度経済成長期の国家的な欲望を反映している。そしてこのような欲望は、現在でも、岡田にしろ大塚にしろ村上にしろ、オタク系文化を高く評価する論者たちの文章に共通して見られるものである。(略)オタク系文化の「日本的」な特徴は、近代以前の日本と素朴に連続するのではなく、むしろ、そのような連続性を壊滅させた戦後のアメリカニズム(消費社会の論理)から誕生したと考えたほうがよい。」 P35-36「そして本章の文脈でここで注目すべきなのが、そのオタクたちの幻想が営まれる場所が、江戸時代の町人文化に擬した一種のテーマパークのように描かれていたことである。前掲のコジェーヴをはじめとして、日本の江戸時代はしばしば、歴史の歩みが止まり、自閉的なスノビズムを発達させた時代として表象されてきた。そして高度経済成長以降の日本は、「昭和元禄」という表現があるように、自分たちの社会を好んで江戸時代になぞらえていた。」

P41「ボードリヤールはポストモダンの社会では、作品や商品のオリジナルとコピーの区別が弱くなり、そのどちらでもない「シミュラークル」という中間形態が支配的になると予測していた。」 P90-91「たとえば、シミュラークルの氾濫というオタク系文化の現実は、見方によればとても過激で無政府主義的なものにも見える。しかし実際には、二次創作の作家にはそのような攻撃的意識は見られない。彼らはむしろ、一方で原作を躊躇なくパロディ化し、切り刻み、リミックスしつつも、他方でその作業をまったく原作の侵害と考えておらず、原作者のクレームが入ったらすぐ二次創作をやめてしまうような保守性をもっている。」

P98-99「他方で「スノビズム」とは、与えられた環境を否定する実質的理由が何もないにもかかわらず、「形式化された価値に基づいて」それを否定する行動様式である。スノッブは環境と調和しない。たとえそこに否定の契機が何もなかったとしても、スノッブはそれをあえて否定し、形式的な対立を作り出し、その対立を楽しみ愛でる。コジェーヴがその例に挙げているのは切腹である。(略)コジェーヴのこの議論は短い日本滞在と直観だけに基づいており、多分に幻想が入っている。しかし、日本社会の中核にはスノビズムがあり、今後はその精神が文化的な世界を支配していくだろうというその直観は、いまから振り返るとおそろしく的確だったとも言える。」

P126「動物化とは何か。コジェーヴの『ヘーゲル読解入門』は、人間と動物の差異を独特な方法で定義している。その鍵となるのは、欲望と欲求の差異である。コジェーヴによれば人間は欲望をもつ。対して動物は欲求しかもたない。」 P135-137「ポストモダンの時代には人々は動物化する。そして実際に、この一〇年間のオタクたちは急速に動物化している。その根拠としては、彼らの文化消費が、大きな物語による意味づけではなく、データベースから抽出された要素の組み合わせを中心として動いていることが挙げられる。彼らはもはや、他者の欲望を欲望する、というような厄介な人間関係に煩わされず、自分の好む萌え要素を、自分の好む物語で演出してくれる作品を単純に求めているのだ。とはいえ、このような主張には反論があるかもしれない。なるほど、オタクたちが作品に向ける態度は動物化しているだろう。(略)しかし彼らは同時に、それなりに社交的な人々としても知られているのではないか。(略)ところがそうではないのだ。なるほど確かに、ポストモダンのオタクたちも「人間」であり、欲望と社交性を備えている。しかしその欲望と社交性のありかたは、やはり、かつての近代的な人間からずいぶんと離れているのである。」

P153「たとえば、本や雑誌は今後も出版され続けるだろうが、その構成や文体はますますウェブページに近づいていくだろうし、映画は今後も上映され続けるだろうが、その演出や編集はますますゲームやビデオクリップに近づいていくだろう。」

◇ ラジオ

 夜に帰宅するが、疲れてしまい、テレビを観る気力もない。寝っ転がって、タイムフリーで、今日の「ビバリー昼ズ」を聴いた。12時台ゲストは水森かおり。あとの番組の中川家礼二もこちらのスタジオに顔を出しにきたようだ。演芸人とのつき合いが多く、ナイツやサンドウィッチマンだけでなく、ロケット団やあぁ~しらき、あるいは、パーマ大佐とアイドル鳥越ともコラボをしているんだって。友近の名前も出て、高田先生が友近をとても褒めていたのが珍しかった。高田先生のツッコミもだんだん遠慮がなくなっていく。

 Spotify のポッドキャストで、少し前に配信された「笑い飯哲夫のサタデー★ナイト仏教」を聴いた。FM大阪で放送されている番組だが、ゲストに横山剣さんが出ていて、この出演はインスタから知った。珍しい顔合わせ。聴きながら、22時頃には眠る。

ブログ アーカイブ

5月20日土曜日/「THE SECOND」

◇ 神保町  朝から都内に。小雨だが、予報ではすぐに止みそうなので、傘はもたずに出た。気温も読めず、パーカーを着ていく。今夜は「THE SECOND」を観なければならないから、余力を残しておきたかったが、想定していたよりも時間に余裕が作れなかった。昼は神保町。土曜はランチをや...