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2021年8月1日日曜日

8月1日日曜日/90年代は高田文夫

◇ ラジオ

 タイムフリーで聴いた、昨夜の「東京ポッド許可局」は「90年代に何を見ていたか論」。小山田圭吾を知らなかったという鹿島さんから始まったこのテーマだが、あとのコーナーでもこの話が続き、思い出したように、そういえば、90年代は高田先生に夢中だったということで3人が一致し、これには大いに膝を打った。たしかにそうだ、よくよく考えてみれば、高田先生の大活躍は 90年代に入ってからで、高田文夫といえば、どうしても「ビートたけしのオールナイトニッポン」がふり返られることになるが、より広く認知されたのは「北野ファンクラブ」(1991年開始)だったはずだ。あの番組をきっかけに、ある時期にはテレビにもたくさん出ていた。なにしろ、「平成教育委員会」や「笑ってヨロシク」のレギュラーだったのだから。そして、なによりも、われわれが熱狂したのは関東高田組だ。浅草キッド、松村邦洋、春風亭昇太、立川ボーイズ、大川興業といった面々を、束ね、率いていたのが高田文夫であり、この面々を追いかけ、テレビやラジオ(「ビバリー昼ズ」は1989年開始)から、ライブ(あるいは落語会)へと導かれていく、というのがわれわれが体験していた 90年代だ。ここに導かれるまでには、もちろん、まず、ビートたけしという圧倒的な存在があり、そこからさらに、高田文夫により、立川談志にも導かれていった。高田文夫が東京の笑いの基準だったともいえる。少なくとも、追いかけていたわれわれはそう思っていた。歴史を整理すると、1994年にはビートたけしのバイク事故があり、1995年にはダウンタウンが社会現象となる。その時代のお笑いをふり返ると、90年代はダウンタウンということになり、その後、松本人志により、笑いの基準が意識的に作られていくことになるが、われわれはそれ以前に、高田文夫から(東京の)笑いの基準(および、芸の基準)を学んでいたということだ。

 日曜の朝は「サンデージャポン」と「ワイドナショー」を録画するため、録画残量を作る必要があり、忙しいときはこれがなかなかめんどうだ。消去する番組から観ていくという、つまらない作業に追われる。午後はラジオ。「爆笑問題の日曜サンデー」をつけておく。競馬コーナーに登場したリスナーは、五十代の男性で、娘が、地下の芸能界でバンドやお笑いをやっているというひとだったが、「イカのおすしちゃん」という名前で活動しているというので検索してみると、この娘さんはどうやら、NATURE DANGER GANG のモリィだ。地蔵中毒の公演に出演していたから認識していた。しかし、こんなに認識しづらい芸能活動を、ちゃんと認識しているお父さんも珍しい。

 東葛スポーツからメールが届いていて、なにかと思えば、今月後半にある公演の予約をしていたが、なんと、主宰の金山寿甲がコロナ感染のため、公演中止というお知らせだった。ああ、こういう時期だからこそ、いちばん観たい劇団なのに。

 夕方、ヤマトの営業所まで。吉野家に寄り、ネバとろ牛丼を食べた。二俣川に出て、銀行に寄り、それから、ドン・キホーテのヤマダ電機に寄った。パソコンにつないで使っているスピーカーが断線してしまい、買いなおさねばと思っているが、この店にはスピーカーが見当たらない。ドトールに入り、アイスコーヒーとクイニーアマンを食べる。読書など、2時間ほど。ツイッターからニュースを見ると、東京の新規感染者数は 3058人に。増減の幅が大きくなっている。神奈川県は 1258人。西友で買いものして、夜に帰宅し、今日は早めに眠った。

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5月20日土曜日/「THE SECOND」

◇ 神保町  朝から都内に。小雨だが、予報ではすぐに止みそうなので、傘はもたずに出た。気温も読めず、パーカーを着ていく。今夜は「THE SECOND」を観なければならないから、余力を残しておきたかったが、想定していたよりも時間に余裕が作れなかった。昼は神保町。土曜はランチをや...